2018年08月01日

入江一子シルクロード記念館を訪ねて

730日月曜日  よみうりカルチャー[荻窪]センター主催公開講座に參加しました。


入江一子シルクロード記念館を訪ねて


10:15 JR阿佐ヶ谷駅集合11:40現地解散。


阿佐ヶ谷驛北口徒歩6分の處。住宅街の奧に立派な洋館があり、入つてみると、そこは、いきなり天井の高い異次元の世界が廣がつていました。


200號の作品がずらっと竝び、その作品群はどれも上から光が注いでくる「シルクロード」の世界でした。


輝く許りの強い黄色、

今にも砂嵐が吹いて來さうな黄土色、

砂漠に生きる人々の生命力の溢れた濃い肌色、山肌も明い土色なのです。

*(1)四姑娘山(スークーニャンシャン)の青い罌粟(ケシ)、どれも原色のようでさうではない。


なんと、水は一つも描いていないのに、黄色い光も、山々も人々も花々も全てが生き生きとして瑞々しいのです。


「今日は體調が良くないので」と102歳の入江一子畫伯は、さう何度も仰りながら1時間近くも御話をして下さいました。

横で御子息の潔氏が叮嚀に解説をしてくださるのも嬉しう御座いました。


朝鮮の大邱(テグ)で生れ育つたこと、(大正5年生れでいらつしやるので、その時には朝鮮は日本國でした)學齡前から今日まで毎日一枚描いていらっしゃるとのこと。


東京藝大は女子が入れなかつたので女子美大が出來ました。

入江畫伯は韓國から初めて女子美に入學される爲に單身上京なさいました。

日本の第一印象は緑に惠まれた美しい箱庭のような都會だと思はれたそうです。


今でも辛いものが大好きで、何處へ出かけても好き嫌ひがなく、何でも食べられるので旅行には便利であると御話もされていました。


それから、何と言つても恩師林武先生との出會い、林先生は才能豐な先生で、わたくしの所屬しております國語問題協議會を福田恆存先生が立上げた頃から會の理事をなさって文語の大切さを説いてくださった先生でした。昭和50年に林先生が亡くなるまで教へを受けることが出來たさうです。


1981
年の「トルファン祭の日」と云ふ作品は1972年末に日中が國交囘復をしてまだ日本の一般人が大陸まで訪れてゐなかつた頃、日本人としては最初であったろう時に青い葡萄の下で人々が踊つてゐる場面に出會つた時をスケッチしておいて後に仕上げたのださうです。その時の現地の方々の踊の輪の中に作家の瀬戸内寂聽氏が現地の人に交つて踊つてゐたのには驚かれたそうです。

偶然ですが19746月に日本の武道の代表としてわたくしへの指名を廖承志氏から戴き大陸へ足を踏み入れたことのあるわたくしにとっては大變親しみのある御話でした。


わたくしは、文藝批評家の秋山駿先生に9年間押掛け祕書的なことをして、秋山先生が瀬戸内寂聽全集の全卷の解説を書いていらっしゃるのをコピーしたり、恩師の大河内昭爾先生が70を越えた寂聽先生をフランスへの文學散歩に御案内した頃に武藏野女子大學(現武藏野大學)で武藏野の日文研究室に入り浸つては御手傳ひをしてゐたので一氣に當時が甦へりました。


大河内先生の次の學院長先生は醫師で長い間ミャンマーにボランテイアでいらして御歸國のあと、武藏野の學院長をなさって、その折に日野原重明先生を御講演の講師として二度御呼びしました。日野原先生が88歳の時です。

日野原先生は前日にアメリカから御歸りになったばかりと仰いましたが、講演のあと、二時間近くも學院長室で談笑されて「よど號ハイジャックに乘り合せて、とても恐かつた」と言ふ御話などをなさいました。


その日野原先生100歳と入江一子畫伯95歳が三越での個展でのコラボをなさった時のビデオも觀せて戴きました(ホームページにも御座います)

カルチャーの1ヵ月前の參加者募集の時には滿員で今囘やっと參加出來ましたが、滿員の理由がよくわかる素晴しさでした。


*(1)この繪の原畫は今は立川中央病院に飾られてゐるとのこと。


*御興味の御座います方は、御著書『101歳の教科書』シルクロードに魅せられて、(生活の友社刊)、ホームページを參考になさってくださいませ。いづれも美しい入江一子畫伯の作品の寫眞が澤山掲載されてゐます。



よみうりカルチャー講師

國御問題協議會常任理事  安田倫子

posted by rinko at 16:38| Comment(0) | とみうりカルチャー教室
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