親しくして戴いている「広島まほろば教室」の松田雄一講師のメッセージです。昨今のみっともないおとなの所業から子供たちはきちんとそのみっともなさを見ています。
広島の松田先生ご書道の「素読教室」では、小学低学年から進んで素読をしているうちに「古事記」「教育勅語」「歴代天皇のお名前全部」などなど片っ端から暗誦していきます。
以下引用
「今日よりぞ をさな心を 打ち捨てて 人となりにし 道を踏めかし」吉田松陰
【おほやけを育てよう】
おほやけを育てる…これは教育の極めて重要な目標です。
失敗すればこの社会は珍獣・奇獣博覧会となり、またその状態で「民主制」なる仕組みを用いると破滅的になります。
いい年をして、また議員という公職にあって意味不明のことを叫んで泣きじゃくる…これは教育も民主制も機能していない証拠です。
そこに「おほやけ」がないのです。
ある方から以前聞かれたことがあります。「教育の目的とは何か?」と。
よって吉田松陰先生の和歌をそのまま返しました。
「今日よりぞ をさな心を 打ち捨てて 人となりにし 道を踏めかし」
すると、大変に納得されました。
人となるための道義・道理を弁える…ここが教育の本義です。
人間が社会的な存在である以上、おほやけ…が大事です。
だから「おほやけ」って何だよ!という方。
読み方は「おおやけ」ですね。漢字だと「公」です。
要は「公」が育っていない社会が現在であり、そのほとんどの原因は教育の中にあると思います。
まず私たち日本人が日本建国の理念を知らない。
フランスが「自由・平等・同胞愛」であるとか、米国が「自由・平等・機会の均等」であるとか、そういう外国の建国の理念は知っているくせに自国のことは教えられない。
非常に恐ろしいですね。
そもそもわが国の建国の理念が「おほやけ」です。
神武天皇は「ひとつ屋根の下、人々が家族のようにある国を」という理想をわが国の礎に据えられました。
だから「みんなが大きなおうちの中にいる家族のように」という理念です。
大きなおうち。これが「大宅(おほやけ)」となりました。時代を経て「公」になりましたが、意味が変化したわけではありません。
多くの国が建国から100年目、200年目を迎えることが難しい中、世界でもっとも古い2674年目を迎えている日本。
これは「おほやけ」という建国の理念が大変素晴らしく、実践されてきたからだと言えると思います。
これだけ荒んだと言われる世の中でも、やはり外国人からすれば日本人の他者への労り、公徳心の高さ…こういうものを見れば「家族のまとまりのような民族だ」と思うわけです。
自分たちが気づいていなくとも。
当然、家族が暮らすにはルールがあります。それがないとマトモに おほやけ が成り立たない。
だから、やらねばならないこと・やってはならないこと・積極的にしてきいたいこと・極力控えるべきこと…これを教えていく。すると おほやけのたみ ができます。
おほやけのたみ 大宅の民 だから、家族の一員ってことですね。
漢風に表現すれば 公民 です。
公民…と聞けば、社会の教科書を想像されるでしょうが、あの教科は本来的には きちんとしたわが国家族の一員 を育てることが目的ですが、現在はその機能を果たせていませんね。
公民の教科書にもトンデモないのが山ほどあります。
公民の教科書を使って育った結果が、自分の権利のみ最大限に要求する人…まぁこんなのは家族にいたら困るわけで、当然に公民ではないですよね。
いうなれば 私民 です。
私民であればこそ、人のことはどうでも良くて、自分の利益の最大化しか考えていなくて、不都合があれば逃げるわけです。
公民の中でも特に強く おほやけ の心を宿していてほしい議員が、うおーん、うぇーん、ひぃぃーっ、と意味不明な表現を人前でしてしまう、議員なのに私民なんです。
なんだ、議員はダメだなぁ…と思わないで。
国民の姿が投影されたものが民主制における議員であるわけで、国民こそが恥ずべきなのです。
素読教室に来ていただけたら分かるのですが、古典や偉人伝を通じて私が一番伝えようとしているのは おほやけ なんです。
もちろん自分も立派な人間ではありませんが、おほやけ が崩壊すれば国が滅ぶことくらいは分かるわけです。
今、わが国の領土や人命・財産をいかに守るか…という点でいろいろな議論がありますね。
であれば合わせて「おほやけ」の育て方も本気で考えましょう。
国土や人命・財産を守っても、おほやけがなくなっていればもう日本はないのと同じです。
極東の海上に弧状列島があって、そこに強欲な人たちが自分のためだけに生きている…というそんな状況になります。
考えよう、おほやけ。
引用終わり。
posted by rinko at 05:34|
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