2012年11月02日

痛快!百戦錬磨の方々のシンポジウム

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2012/11/1(平成24年11月1日)14:00〜首都大学東京南大沢キャンパスにて「江戸・東京と江戸城・皇居」と題してシンポジウムが開催された。

原島文雄学長挨拶

タイムズ・ロイター(英)には日本の大学が13校入っていて我が校は7位。今、日本の大学の発信能力が問われている。
大学がグローバリゼーションを発信できるのは日本人としてのアイデンテテイを備えてこそ、異なる文化を理解し、尊敬することによってできる。来年度はまず、「首都東京」を学ぶ講座を開講したい。本日のシンポジウムもその目的の一連で開催した。

基調講演、藤森照信(1946年生まれ)工学院大学教授・建築、東京大学名誉教授、パネリストは猪瀬直樹(1946年生まれ)・作家・副知事、竹田恒泰(1975年生まれ)作家・慶応義塾大学講師、司会(モデレーター)上野淳(1948年生まれ)首都大学東京副学長。

藤森先生は、82年明治期の都市計画を扱った博士論文「明治の東京計画」出版、(毎日出版文化賞受賞)があるように、明治期の東京はどのようにして作られていったか詳しくお話をされた。
明治17年、内務次官・知事の吉川けんせいが築地本願寺の屋根から見て、最初の都市計画を立て、原口要(鉄道技師・土木技師)が日本列島の縦貫鉄道としての中央駅となる東京駅の位置・働きを考え、辰野金吾がベネチアンゴシックの、水映りのいい美しい建築物を作っていった。
外交交渉は目に見えるものを据える井上馨(鹿鳴館など)、一方、目に見えないところで政治を動かす山県有朋がいた。総理は伊藤博文。明治21年には渋沢栄一も計画を練り昭和16年まで陸軍が直接荷物を揚げる東京港と東京駅は直結していた。
1954年、湾岸地区に岡本太郎が「いこいの島」計画。1958年加納久明(加納構想と呼ばれる)・住宅公団初代総裁、
1960年、丹下健三が都市計画に加わる。彼は何を作るにも富士山と皇居を基点に据えた。

丹下健三の名前は懐かしい。亡き父と今治中学の同級生で仲が良く、私の両親は妹さんご一家とも妹さんがが亡くなるまで今治で親交があったから。その丹下さんが「建築を考えるときに富士山と皇居に基点を据えたをいう話はとても嬉しかった。

猪瀬副知事は朝、31日に石原慎太郎知事が退任したので知事の代理として、神津島で行われた自衛隊、警視庁、東京都消防庁、米軍の大震災に対する初めての合同訓練に立ち会って来たばかりと仰った。今までは縦割りだったけど、これでお互いに十分力を出せるとのこと。有り難いと思った。
立川から飛び立ったヘリから東京を見ると、どこまでも東京が無限に広がっていた。世界中何処の都市でも城門があり、塀が巡らされているが東京には塀がない。
日本人が持つ緻密な、寸分の狂いもなく動いている時間の感覚。心象風景として広がる無限の時間(空間)の美をそこに見たと仰る。

ただ、どの学校の屋上にも住所がはっきり大きく書かれていないので震災のときの目印がないことに気付いたとも。

藤森先生が丹下健三が富士山と皇居を基点に置いたことを話されてそれは重要で、今、皇居の内堀は国の管轄、外堀は東京都なので内堀の柳など貧弱で見ていられない。東京都に内堀を譲ってくれたら立派な景観を内外統一して作るのに、何度も国に働きかけているが一向に話が進展しないとも。

竹田先生のHPのご紹介も上野先生がなさったり、(竹の間)、お三方も皇居の中の伝えられてきた植物や景観を日本人はもっと誇っていいと強調された。
竹田先生は江戸が世界にも例がない清潔な大都市であったことをお話されたが「リサイクル都市」というキーワードを使われたらよかったなあ〜と思った。
竹田先生は国民が皇居の中に入れるのは年に二回。新年と天皇誕生日。皇居を拝観する絶好のチャンス、この12月23日には是非参賀に行きましょうといわれた。

また、藤森先生は猪瀬副知事の「すごい調査能力」を高く評価されていた。普通学者は著書の「注」で、大体どのレベルの調査研究が進んでいるかわかるが猪瀬さんのは自分の建築の専門分野でも「これは後で調べよう」と思ったことを、きちんと調べをつけていて感心したことなど話され、途中で原島学長も議論に参戦、シンポジウムは大いに盛り上がった。

posted by rinko at 03:42| Comment(0) | 講演会を拝聴して