2018年06月27日

オリンピックと日本人のこころ


24日に、鈴木くにこ様から新刊御著書を御恵贈戴きました。


『オリンピックと日本人の心』内外出版社。新書版。2018623日(オリンピック・デー)


この御本は、全体が「真に日本人的な、細やかな愛情を纏って」出来上がっています。


何故なら鈴木様は純粋に日本人としての誇りを持ち、活躍の場を、豊富な語学力を発揮されて日本の精神そのものを通訳されてもいるからです。


特にフランス語はフランス人並みです。


表紙カバーから扉、目次、本文に読み進めて、どの一文字、一句にも日本人的配慮が行き届いています。


そうして鈴木様を取り巻く友情の証しでもある、交流の深い一流の方々との信頼に溢れた作りになっている処が素晴らしいのです。


これら方々の支えなくしては、いつも、日本人として、広く世界を相手に互角にものを申していることは出来ないでしょう。


鈴木様は、何故このように、日本の文化に造詣が深く、文章に優しさがあり、格調が高いのか。


それは鈴木様の生き方の一部、日々の歩みを知れば簡単に繙く事が出来ます。


幼稚園から高校まで学習院で學び、渡仏。

慶応大学法学部政治学科首席卒業。

まだまだ学歴は重ねるのですが、素直で鋭い探究心が錆び付く事なく磨かれ続けていらっしゃるからです。


現在は「外交・安全保障研究家」として独立なさっています。


鈴木様は、御時間の許す限り、土曜日開講の「倫子塾」吉祥寺本部教室に通われて、丹田腹式呼吸法、気功、古武術を熱心に稽古なさっていらっしゃいます。


世界情勢を違わず分析、日本の為にお働き下さっていることに対して、感謝しかありません。


どうぞ御自重下さいまして、日本を広く世界に知らしめる御働きを続けて下さいませ。


追伸:アマゾンの読者レビューを載せました。


   この文章の簡略版です。宜しければお読みくださいませ。



posted by rinko at 08:47| Comment(0) | 論文

2016年05月27日

岡崎久彦先生のこと




安田倫子

5月23日 17:38

長文です。

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わたくしは、このメルマガの愛読者です。

よくぞ取り上げてくださいましたと伊勢様に先ずお礼を申し上げたいです。

岡崎久彦先生とは、晩年20年弱、気功を通じて、ご親交に与りました。

沢山の素晴らしい方々との御引き合わせの機会も戴きました。

叔父様の『陸奥宗光』傳をはじめ、わたくしの全く存じ上げない世界のご著書も、興味が有りそうにすると何でも下さいました。

深い感謝の念でいっぱいで御座います。

*昨年吉祥寺本部教室でのわたくしの「倫子塾で學ぶ 甦る美しい國講座」(毎月第4水曜日19:00〜開講。今月は25日)で岡崎研究所の秘書を務めていらした鈴木邦子様のご好意により、岡崎先生の遺稿集『義』(文語で書かれています)の解説をし、先生を偲びました。

*以前このメルマガで感想文の募集があり、全国10名にご褒美として原稿掲載過去メルマガを読ませてもらえるということで、有難くも当選致しました。

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■■ Japan On the Globe(952) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

人物探訪: 岡崎久彦 〜 空想的平和主義と戦った外交官

 外交官として40年、外交評論家として22年、日本の安全保障政策の正常化のために戦った人生。


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■1.「日本全体が狂っていたのです」

 昨年10月に亡くなった元外交官・外交評論家の岡崎久彦氏の回想録『国際情勢判断・半世紀』[1]に次のような一節があった。

 岡崎氏が駐タイ大使をしていた平成2(1990)年、国連平和協力法の案も出来ていない段階で、日本がこの法案を作っていいかどうか、中韓とアセアン6カ国の意向を聞くために特使を出そうという動きがあった。そして各国駐在の大使に、特使の受け入れが可能かどうか、先方の政府に確認せよ、という訓令が出された。タイを除く7カ国はすぐにOKの返事を出した。

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 しかし、日本の安全保障に関する問題で、法案が出来てから説明に行くのならわかりますが、作る前に法律を作っていいかどうか問うのは、どう考えても変です。

中国がやめろと言ったら、言われたとおりにするのでしょうか。そうでないのならもともと特使は意味がないし、これが先例になったら、どんな安保関係の法案でも8カ国に聞いてから作ることになってしまいます。[1,p142]
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 岡崎氏は友人の椎名素夫氏(衆議院議員)に電話をして「何とか出来ないか」と頼み、椎名氏があちこちに電話したうちの一人、藤尾正行・元文相が怒って、そんなことは許さないと外務省に怒鳴り込み、自民党総務会で議論するとすごんだ。それで特使派遣の話は流れた。

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 今、集団的自衛権や武器輸出三原則について法律を作っていいかどうかを、中韓とASEAN10カ国に聞くなど誰も考えません。当時は、十人の代議士が大名行列で行って、日本の防衛政策についてお伺いを立てる、といった馬鹿馬鹿しいことを考える人がいたのです。日本全体が狂っていたのです。

長い間外務省で月給をもらってあまりお国のために役に立ってはいないけれど、特使派遣を潰したことだけは、お国の役に立ったので、私の一番の仕事だったと思います。[1,p143]
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「日本全体が狂っていた」のは、日本さえ平和憲法を守っていれば国際平和は守れるという空想的平和主義による非常識がまかり通っていたからだ。岡崎氏の外交官、および外交評論家としての一生は、その非常識との戦いであった。

■2.「日本の安全保障に直結する台湾を中国に渡すわけにはいかない」

 昭和40(1965)年代前半、岡崎氏は佐藤首相のスピーチライターの仕事をしながら、中国との国交正常化を主張する親中派、左派と戦っていた。日本の安全保障に直結する台湾を中国に渡すわけにはいかない、というのが、根本的な理由だった。

 外務省で事務方として正常化を進めていた橋本恕(ひろし)中国課長(後の駐中国大使)とは、宴会の席で何度も怒鳴りあいの喧嘩をした。

 昭和46(1971)年3月に岡崎氏はワシントンに赴任となった。そこで牛場信彦駐米大使とともに、台湾切り捨て反対、正常化を急いではいけない、との論陣を張っていたが、7月にニクソン米大統領が訪中を発表して、日本の世論もがらっと変わった。「アメリカが先に裏切った」という雰囲気になり、世論は一斉に日中国交正常化に靡いた。

 昭和47(1972)年7月に田中角栄内閣が成立すると、牛場駐米大使は更迭された。在米大使館も日中国交正常化一色になり、孤立した岡崎氏は、韓国行きを希望した。北朝鮮と38度線で冷戦状態を続ける韓国を見てみたい、という気持ちもあった。

 当時は、韓国大使館は主流からはずれたポストで、人事課長からも「韓国なんかに行くなよ。東京に課長のポストはいくらでもある」と言ってくれたが、牛場大使をクビにした田中首相、大平外相の下で働く気はしなかった。

 日中国交正常化の後、日本の膨大な経済支援、企業進出によって、中国を近隣諸国を脅かす覇権国家に育ててしまった事を見れば、岡崎氏の「正常化を急いではいけない」こそ正論であったことは明らかである。[a]

 岡崎氏はソウルでも公然と田中政権を批判し続けたので、「今太閤」と持て囃される田中首相に叩かれたらどうするのか、と周囲は心配した。しかし「外交試験を通っているから、最悪の場合でも、どこかの大使にでもなるからほっておいてくれ」と一人で頑張った。もう出世は諦めていた。

■3.「潜在的脅威」と言っただけで大騒ぎ

 昭和51(1976)年3月に帰国して、中近東アフリカ局参事官という閑職に就いた後、昭和53(1978)年夏に防衛庁の参事官として出向した。明らかな左遷だったが、岡崎氏は喜んで受けた。これでやっと外務省から自由になれると考えたからだ。ただ、省内では虎を野に放つようなものだ、という反対の声もあった。

 防衛庁時代の3年間で、国会答弁に約3百回も立った。ちょうど1970年代の米ソ緊張緩和(デタント)が終わり、米ソ対立が再び激化した時期だった。デタント中もソ連の軍備拡張は続いており、日本にもソ連の脅威が迫っていた。

 最初の国会答弁は「ソ連の地上軍が北方領土の択捉、国後島に派遣されたが、それは師団規模か旅団規模か、どういう意図で出てくるのか」との質問に対するものだった。

 当時は空想的平和主義の影響で、「脅威」という言葉を使うことはタブーだった。しかし、それでは防衛政策は論じられない。そこで岡崎氏は外務省の加藤吉弥欧亜局参事官に「潜在的脅威」という言葉ではどうかと提案した。加藤氏は「仕方がない」と了承した。

 その上で岡崎氏は国会答弁で「潜在的脅威」という言葉を使ったら、案の上、大騒ぎになり、外務省も始めは怒ったが、すでに了承を得ているということが分かって「やむを得ない」となった。

 こうした活動で、政界・財界に岡崎氏の応援団が出来て、一生の財産となった。財界でも「あれだけ優秀な人間を疎外して使わないとは何だ。外務省はけしからん」と言ってくれる人がいた。自民党のタカ派も岡崎氏の支持者となったので、外務省もうかつには手をつけられなくなった。

■4.タブーの安全保障論議に切り込んだ『戦略的思考とは何か』

 昭和56(1981)年から1年間の米国遊学に出た。ハーバード大学などで日本の防衛戦略を研究し、それが米国の権威ある専門誌に掲載された。

 米ソの核戦力が均衡している状態では、両方とも互いの核兵器が怖いので核戦争にはならない。起こるとすれば、偶発的な事件をきっかけにした通常兵器による戦争で、ソ連に近い戦略的に重要な位置にある日本にとって大切なのは、通常兵器の整備を進め、抑止力を高めることだ、という要旨だった。

 この論文は米国でも高く評価され、よく引用もされた。これをベースに昭和58(1983)年に出版したのが『戦略的思考とは何か』(中公新書)で20万部以上に達するロングセラーになった。

 戦後日本では、大学でも戦略論や軍事論の講義がなかったように、安全保障論議がタブーとされていた。そんな中で、正面から軍事戦略、国家戦略を論じた事で大きな反響を呼んだ。

 大学での国際関係論のゼミで教科書で使われると、内容に反発する学生と、これが本当だという学生に真っ二つに分かれた。反発したのは、日教組の平和教育を信じ込んでいた学生だった。空想的平和主義の虚構に真っ向から切り込んだ本であった。

■5.「後藤田と瀬島のいるところでは働けませんよ」

 米国から帰って、就いたポストが外務省の調査企画部長だった。日本を戦争の破局に導いた情報軽視を改善する糸口を作りたい、というのが宿願だったので、それが叶った形になる。

 さらに、当時の中曽根康弘内閣のもとで、政財界が一致して、外務省の情報収集・分析・管理機能の充実・強化のために情報調査局を作れ、という声が高まった。外務省幹部は、この声に押されて、情報調査局を作り、岡崎氏を初代局長とした。

 しかし、官房長官の後藤田正晴氏は、何かにつけて岡崎氏の邪魔をした。軍は警察の下にいなければならない、という世界でも例のない信念の持ち主で、官僚的な勢力争いの観点から、防衛庁を自分の権限下に置こうとした。

 ペルシャ湾に掃海艇を出すかどうか、の議論の際[b]、岡崎氏の参加している会議で、大声で「この中に掃海艇を出すなんて言っているやつがいる」と恫喝したこともあった。

 政府として国際情報の収集・分析を進めようとしたら、防衛、警察、内閣調査室との間でも協力体制を築かねばならないが、要の官房長官がこういう有様では、夢のまた夢だった。

 この頃、すでに3期も下の局長が5人いて、岡崎氏が局長を続けるには人事的に無理があった。出世コースにいたら、官房長や外務審議官などの幹部になる所だが、当時の外務省の評価では、その可能性もゼロだった。

 同期で外務事務次官をやっていた村田良平氏が、岡崎氏の処遇に皆が困っている、と言ってくれたので、岡崎氏は「外に行くならサウジアラビアがいい」と言った。その話に外務省幹部が飛びついて、情報調査局長になって半年もしないのに、駐サウジアラビア大使として赴任することになった。

 後に、中曽根首相と会った時に、「おまえどうして行ったんだ」と聞くので、「後藤田のいるところでは働けませんよ」と言ったら、「うんうん」と頷いていた。中曽根首相は岡崎氏をもっと使うつもりだったようだ。

■6.謝罪外交に「待った」

 欧米諸国にとってはサウジは中近東の中心で、各国外交官の俊英が集まる。岡崎氏はそこに目をつけたのだった。駐サウジアラビア大使時代には、世界の石油価格低下を後押しして、ソ連崩壊のきっかけも作った。

 次の任地は昭和63(1988)年暮れに赴任したタイだった。外務審議官などを経験したエリート外交官が行く所で、これまた当時次官だった村田良平氏が根回ししてくれた。冒頭の国連平和協力法に関する特使派遣を潰したのは、この時のことだった。

 平成3(1991)年秋に、今上陛下が天皇として初めて海外訪問をされることになり、その最初の国がタイとなった。外務省は、最初のアジア御訪問だから、バンコクで真っ先に先の戦争について謝罪をする、という案を送ってきた。相変わらずの自虐史観である。

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 タイには日本に謝罪を求める気持ちなどないことを知っていましたから、私は反対しました。タイ外務省に確認し、こういうアイデアもあるけれど必要ありますか、と聞いたら、「タイは何も謝ってもらう必要はない」という返事で、それを報告しました。[1,p145]
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「ドイツは謝っているが、日本は謝っていない」という声もあったので、資料を調べ、ドイツが謝っているのはユダヤ人虐殺に関してだけだと判明して、その内容を本省に知らせたりもした。

 岡崎大使の抵抗に遭って、結局、天皇の演説の冒頭で日本とタイの友好関係を述べ、最後に東南アジア全体に向けて「先の誠に不幸な戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう平和国家として生きることを決意」という案に落ち着いた。

 こうした有害無益な謝罪外交を止めさせたのも、岡崎氏の大きな功績だった。

■7.一生をかけた戦い

 岡崎氏は平成4(1992)年6月に駐タイ大使を最後に退官して、外務省を離れた。その後は外交評論家として、日本の防衛政策の正常化に努力した。

 国連平和協力法の成案化の前から各国政府に意見を聞こうとしたり、相手政府から要求もないのに謝罪をしようとしたり、「潜在的脅威」と言っただけで大騒ぎになるとは、現在から見れば非常識な空想的平和主義がまかり通っていたのだが、これらが非常識に見えるのは我々がそれだけ国際常識を取り戻したということだろう。

 その陰には岡崎氏の一生をかけた戦いがあったことに思いを致すべきだ。

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 私は、21世紀の日本の安全を確保するには、日米同盟を盤石にすることが不可欠、と一貫して主張してきました。そのためには、米国にとっても日米同盟が不可欠でなければなりません。そのためには、例えば米艦に対する攻撃に対して、同盟国として反撃できるようにすればいいのです。

集団的自衛権の行使を認め、自衛隊がシーレーンのパトロールに加われば、東南アジア諸国も含め、日本は大きな信頼を得ることができるでしょう。日米関係は、米英関係と同等の強固な運命共同体になります。[1,p202]
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 集団的自衛権が日米同盟の基盤であり、日米同盟を盤石にすることが日本の安全の要である。「集団的自衛権は持っているけれども行使できない」などという摩訶不思議な憲法解釈[c]が、安倍政権で改められた。岡崎氏の長年の努力が実を結んだのである。

 日本国の安全と平和のために、戦後の空想的平和主義と戦った岡崎氏の外交官として40年、外交評論家、外交史家として22年の奮闘に深甚の謝意を捧げたい。
(文責:伊勢雅臣)

1. 岡崎久彦『国際情勢判断・半世紀』★★★、扶桑社、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594072380/japanontheg01-22/
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